茶の間でおま。

本とかテレビとかすきなものたち。

「カルテット」#8

「片思いは一人で見る夢」とか「興味のない人からの告白は夢の話とおなじ。へー、でしかない」っていうセリフを言わされ、すずめちゃんのためにたこ焼き買って帰ってほんで「好き」って言葉をむりやり言わせて、でも冗談だよって言えばそれはなかったことになるんだよっていう家森くんがかわいそうでした・・・だがしかしこのドラマで一番わたしが盛り上がるのはこのひとたちの恋愛模様とかではなくて最後の最後にきたマキさんがマキさんという名前ではなくてじゃあ誰なのよこの女・・・!というそういうところ。キャー、やだー、なにー、マキさんいったいまだどんな秘密を隠し持ってるのーー。

っていうか恋愛ドラマだという認識が欠如していたので、すずめちゃんが別府くんのことすきとか言い出した時ものすごく唐突に感じたし、そういえば別府くんはマキさんのことすきなんだったわ忘れてたわ、ってようやく思い出したし、ああ、そうなんだそこに家森くんも絡んでくるんだー、へー、へーー、って感じ。へー。

行かなかった旅の思い出なんてわたしは後生大事にとっておきたくない。

「告白」

ちょうど湊さんのエッセー集を読んでるところなんだけど、いつまでたっても「『告白』の湊かなえ」と言われることに対する思いが興味深くて、映画を見てみてもやっぱりこのデビュー作の衝撃というのは湊さんにとって一生の宝物で、それは大事にしていいんじゃないかなって思いました。原作は2008年に読んだ(らしい

出てくるのは母親ばかりで父親の不在がとても気になった。シングルマザーの教師に、父親が仕事で不在の家庭に、父親が再婚して「家族」が不在の家庭。少女Aの家族がどうであったのかはわからなかったけれど、どこにも父親は存在していなくて、それでも物語は進行していくことのうすら寒さ。逆に言えばそこまで強烈な存在感を示している「母親」という人物たちにかかる負荷の大きさが、わたしにとっては恐ろしかった。母親である「わたし」がこどもに与える影響の大きさを改めて思い知らされたようでこわかった。母親であることの重み。

森口先生に共感することはたやすいけれど(わたしが母親だから)それよりも鮮烈な印象を残すのが中学生たちの集団ヒステリーともいうべき「集合体」になったときの「個」が消滅し一人一人の意見ではなく「集合体」としての意識を持ち始めたことだった。

少年Aに対するいじめは正当性を持ちこれは悪ではなく正義なのだという大義名分のもと、意識を持った「集合体」は「個」を離れて大きな力となって一人ずつの人間を簡単に呑み込んでいく。

ふっと我に返ったとき、こんな状況で生きていけるなんてぜったいに無理だ死のうって思ってたことに気づいて震えた。だめだ。

中学生たちの幼さと愚かさと、そして恐ろしさ。成熟していない人間をこんなふうに集団でいさせてはならないんじゃないかと、本気でおもう。担任教師がたった一人でこのエネルギに太刀打ちなんてできないとおもう。彼らはいじめがよくないことも知ってるし誰かを傷つけてはいけないことも知ってるし、それと同時に周りの人間たちとうまくやっていくためには自分の意見を声高に主張してはいけないことも知っている。絶妙なバランスの上に保たれた教室の中の世界は常に緊張していて、それを見抜けない間抜けな人間が(それがウェルテル)さらに世界をかき乱す。未熟な人間はたやすく壊れる。そう、こんな風に。

きっと爆破はされなかったし彼の母親は失われてはいない。極限まで追い詰められていた状態で言われた「なーんちゃって」で彼は壊れたのだと思う。それが彼女の復讐。更生なんてしない。彼の母親はきっと彼のことを忘れてる。母親は彼に会いに来ない。死んだと思った母親が生きていても、それは彼にとって救いにはならないという絶望。それが復讐。だとおもう。

西原幸人くんと藤原薫くんは鈴木先生にも出てたねっておもったけどこっちのほうが先なんだね。橋本愛ちゃんの凛としたうつくしさにハッとする。

「かもめ」

見たかった田中圭ちゃんと満島ひかりちゃんが共演した「かもめ」がEテレでオンエアされたやつ見ましたー。

youtu.be

ボロボロのお洋服を着てひたすら愛を乞う彼のさびしさとツラさがとても痛かった。愛してると言ってくれた彼女は都会からきた有名人に夢中になり、才能のない自分はあっさりと捨てられたのだとおもってる。それは母親に対してもおなじで、才能ある女優である母にとって自分は無能で平凡で価値のない人間だとおもってる。愛に飢え、自分を肯定できず、それでももがく彼が哀しかった。あんなに愛されていたのに。

彼もまたきっと傲慢であったのだとおもう。

コースチャの病的な部分ばかりが気になったけど、でもトリゴーリンも実はそうなのではないかと気づかされた。あの終盤のかもめの剥製を見て「覚えない」と繰り返し言うところの狂気。若い娘と火遊びのような恋をして子供も産ませて、でも簡単に捨てることができて、元の年上の愛人のところに戻ることの出来る厚顔さと、無邪気にいつか捨てた若い女の子のふるさとにのこのことやってくることのできるデリカシーのなさは怖かった。コースチャのようにわかりやすい病み方ではなかったぶん余計に。

田中圭ちゃんのエロスが最大限に発揮されていて、夢見る少女をたぶらかし、一瞬の気の迷いに歯止めをかけないそのだらしなさがさいこうにすばらしかった。えりもとの緩んだシャツに、いつも捲られていたズボンの裾。そしてビーチサンダル。なんという緩さ。みんなが彼の才能をたたえるけれど、彼もまた文字を書くことに追われる日々に心を病んでいたのだとわかる。書いている時には幸福感に包まれていてもいざそれが書籍という形になったときに絶望する。書かなければよかった。それでも彼は書くしかなく、周りの人間たちをすべて自分の中に取り込んでその人生を弄ぶ。そんな彼を制御できるのは確かにイリーナだけだったのかもしれない。ニーナには荷が重すぎた。

憧れていた女優という未来予想図とは大きくかけ離れているであろう現実から時折目をそらしながらも、それでもわたしは女優だとなんども言い聞かせるニーナは、ただその「女優」であるという現実、それがどんな形のものであっても、にしがみついて生きるしかなく、恐らく見えているであろう誰の目にも明らかな未来が「三等列車に農民たちと一緒に乗ってエレツへ行くの」というセリフなのだとわかる。

自分に会いに来たのではなく、彼女を捨てたあの男をまだ愛してるのだと、その彼に会いたかったのだとわかった彼の絶望は深い。部屋を出て行った彼女が一列に並んだ椅子たちの真ん中に後ろ向きに座り、それをさしてシャムラーエフがかもめの剥製だと言ったことにゾッとした。そしてそのことを「覚えていない」というトリゴーリンにも。

しかし田中圭ちゃんはほんとにわたしのすきなお芝居をするので困ります。息をするように嘘をつくのが上手。セリフを言うことにためらいがない。それなのに気負ったところがなくて、そのなんでも簡単にやってのけてみせてるように見えるのがすごい。

たとえば満島ひかりちゃんはその内なるパッションを隠すことが出来なくて、今回のお芝居ではそれを存分に発揮していいという演出をうけてあますところなくおしみなくそのパッションをはじけさせていたし、これが初舞台だという坂口健太郎くんはやっぱり模索していたりなにかを手探りしていたり見えないものを一生懸命見ようとしている空気感があった。それが若さなのかもしれないけれど。難しいだろうお芝居を、これだけ見たあとにいろいろと思わせてくれる作品にしたのはすばらしかった。瑞々しかった。そしてやっぱりスタイルがいいのでとても舞台映えする。

坂口健太郎くんと田中圭ちゃんが同じ事務所だって知りましたwもしかしてタラレバ娘はバーターだったのwwwと衝撃の事実にわらってます(どっちが、とか言わない

そしてやっぱり田中圭ちゃんの足首とかくるぶしさいこうだった。です。