茶の間でおま。

本とかテレビとかすきなものたち。

綿矢りさ「夢を与える」(33)

こないだ見たWOWOWドラマの補完として読みました。

 

夢を与える

夢を与える

 

 が、ドラマと違うところがいろいろあって面喰いました。

なぜ幹子が夕子を芸能界に入れることにしたのかという点は、はっきりとは描かれていなかったけれど、それでも母親が娘に執着するのが母性愛を超えた愛情の存在に納得させられた。だから小説の中の母親は娘に対して絶対に怒らなかった。あんなスキャンダルがあっても、娘を信じ、許し、守ろうとした。ドラマの母親は、自分の夢を娘に託す大人の姿であって、自分の思いのままにならない娘に苛立っていたように見えた。

あの映像をなぜ撮らせたのかというくだりも丁寧に描かれていて、というか彼女が初めて人を好きになったことに浮かれまくってるのがよくわかって、ああなるほどこうやって人は正常な判断力を失うのだなとおもった。怖い。

彼女の初めての恋は大失敗だったし、ドラマでは立ち直れたけれど小説では、もうなにもいらないと言っていてそのエンディングは絶望しかなかった。

ドラマではそれほどにダンサーとの恋愛に重きが置かれたなかったとおもうんだけど、小説ではほぼそれがメインなのではと思わせられ、傍観者としては、ああ、愚かな恋愛だなぁっておもうんだけど、渦中にいるとそれには気付かなくて、さんざん傷ついたあとにようやく失ったものに気付くんだよね。若いって残酷。

ドラマであった夏帆ちゃんとのエピソードは小説の中のものをいくつか混ぜられてつくられてたんだなってわかるんだけど、あのくだりにどういう意味があったんだろう。そもそも、ドラマの中での夏帆ちゃんは夕子のことを恨んでるだろうに、それでも彼女を愛してたというのがわかりにくて、自分が持っていないものを全部持ってる人に対する嫉妬と純粋な羨望が入り混じって、結果やっぱり愛される存在である夕子の証左となっていたのかな。小説ではなおさらよくわからなかった。

ドラマの中で、テレビカメラの前に立って、わたしは人を愛した、その愛した姿が汚らわしいと言うのなら、人は人を愛してはいけないと思う、という言葉が印象的で、さらに母の愛についても、テレビの中のものはスイッチ一つで簡単に消えてしまうけれどお母さんだけはわたしをずっと愛し続けてくれたと言及していて母親の愛が報われたことに感動しました。

ドラマでは最後に多摩が救ってくれるけれど、多摩は夕子のことをどう思っていたのかな。