茶の間でおま。

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雫井脩介「望み」(4)

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望み

望み

 

このミス13位、早川20位、文春9位。

いやもう重いし重いし重かった。

我が子が殺人事件に関係したと分かった時、加害者であるか被害者であるか五分五分の状況である時、親である自分は、どっちを望むか。

加害者でもいいから生きていてほしいと望むか、死んでしまってもしょうがないから人を殺すような人間ではないと望むか。

それは生きていることを望むか、死んでいることを望むかと言い換えても過言ではないのだという究極の選択を突きつけれた時、世の親たちは何を望むんだろうか。

子が一人であれば、罪を償う子とともに生きていく覚悟ができるかもしれないけど、ほかにきょうだいがいた場合、その子が犠牲になってしまうのはやるせない。許容できない。それがほかの親類に及ぶとなれば影響は計り知れず、ただ自分だけが耐えればいいのだという問題でもなくなってくる。

確かにわたしには家族以外に失う地位も名誉もないから、いざとなれば我が子と一緒にひっそりと息をひそめてただ贖罪の日々を送ればいい、そういう覚悟もできなくはない、と軽率におもってしまうけど、これからの未来があるきょうだいであるとか、社会的地位のある夫という人物にとってそれが受け入れがたいというのもよくわかる。そしてそういう人たちが、被害者であったという事実によって救われたのだという事実に胸がふさがれる。そのことが決して幸せであるとはおもえないから。たとえ志望校に進学できたとしても、たとえ事業が順調に成長したとしても、それは彼の死がもたらしたものなのだという想いは消えないだろうから。その上に成り立つ「幸せ」が果たしてほんとうにそうであるのかは疑問だし、でもだからといって加害者であってほしいとはやぱり思えない。生きていてほしいから人殺しであってほしいという極論は強烈なインパクトだった。

それにしても高校生になったばかりの息子が無断外泊を何度も繰り返すのをゆるすということはわたしの中にはないし、クラブチームに入るほどに頑張っていたサッカーの試合を見に行かないというのも考えられないし、理不尽な怪我でその競技人生を断念せざるを得なくなるという人生における最大の困難に直面した息子に対する両親のスタンスがあまりにもドライすぎて、それはあんまりにもあんまりじゃないかと。

わたしは息子のスポーツ外来に通うために週に一度は仕事を早退して病院まで送迎してるし、主治医の先生ともそのたびに診療方針を相談したりしてるし、少し過剰かなと思わないでもないけれどでもうちのバカ息子にはそれだけの価値があると思ってるし、できる範囲で親が協力をするのは当然のことだとおもってるし、だからこそここまで放任なことにびっくりする。皮肉ではなく。夢絶たれた彼の絶望を、両親はどれだけ理解していたのだろう。彼が巻き込まれたトラブルにまったく気づくことができなかったのは彼らの落ち度だとおもうし、彼の交友関係を把握していなかったことは恥ずべきことだとおもう。

うちのバカ息子もほんとうにバカだけど、それでもゴミの日はちゃんとゴミ出ししてくれるし、わたしより先に帰った時には洗濯物を取り込んでくれるし、たまにだけど肩だって揉んでくれる。でもバカだから、やっちゃだめだってわかってることをやりたがったり、だいじなものの優先順位を間違ったりする。でもそれは彼の人生だから、間違えたことの責任は彼がとればいいし、わたしは彼の一生の味方だけど、でも、それだけだ。彼の後悔は彼の責任であって、わたしの責任ではない。そう言い切れるだけの時間を彼に費やしてるという自負が、わたしを親たらしめてるのだとおもう。そしてその後悔につきあってあげようという気持ちももちあわせてる。

わたしは、もし、わたしのバカ息子がこういう事件に巻き込まれた時は、ああ、バカだからきっと間違ったことをしてしまったんだな、とおもってその彼を受け止めて、そしてやっぱり生きていてほしいと望む。かな。