茶の間でおま。

本とかテレビとかすきなものたち。

「告白」

ちょうど湊さんのエッセー集を読んでるところなんだけど、いつまでたっても「『告白』の湊かなえ」と言われることに対する思いが興味深くて、映画を見てみてもやっぱりこのデビュー作の衝撃というのは湊さんにとって一生の宝物で、それは大事にしていいんじゃないかなって思いました。原作は2008年に読んだ(らしい

出てくるのは母親ばかりで父親の不在がとても気になった。シングルマザーの教師に、父親が仕事で不在の家庭に、父親が再婚して「家族」が不在の家庭。少女Aの家族がどうであったのかはわからなかったけれど、どこにも父親は存在していなくて、それでも物語は進行していくことのうすら寒さ。逆に言えばそこまで強烈な存在感を示している「母親」という人物たちにかかる負荷の大きさが、わたしにとっては恐ろしかった。母親である「わたし」がこどもに与える影響の大きさを改めて思い知らされたようでこわかった。母親であることの重み。

森口先生に共感することはたやすいけれど(わたしが母親だから)それよりも鮮烈な印象を残すのが中学生たちの集団ヒステリーともいうべき「集合体」になったときの「個」が消滅し一人一人の意見ではなく「集合体」としての意識を持ち始めたことだった。

少年Aに対するいじめは正当性を持ちこれは悪ではなく正義なのだという大義名分のもと、意識を持った「集合体」は「個」を離れて大きな力となって一人ずつの人間を簡単に呑み込んでいく。

ふっと我に返ったとき、こんな状況で生きていけるなんてぜったいに無理だ死のうって思ってたことに気づいて震えた。だめだ。

中学生たちの幼さと愚かさと、そして恐ろしさ。成熟していない人間をこんなふうに集団でいさせてはならないんじゃないかと、本気でおもう。担任教師がたった一人でこのエネルギに太刀打ちなんてできないとおもう。彼らはいじめがよくないことも知ってるし誰かを傷つけてはいけないことも知ってるし、それと同時に周りの人間たちとうまくやっていくためには自分の意見を声高に主張してはいけないことも知っている。絶妙なバランスの上に保たれた教室の中の世界は常に緊張していて、それを見抜けない間抜けな人間が(それがウェルテル)さらに世界をかき乱す。未熟な人間はたやすく壊れる。そう、こんな風に。

きっと爆破はされなかったし彼の母親は失われてはいない。極限まで追い詰められていた状態で言われた「なーんちゃって」で彼は壊れたのだと思う。それが彼女の復讐。更生なんてしない。彼の母親はきっと彼のことを忘れてる。母親は彼に会いに来ない。死んだと思った母親が生きていても、それは彼にとって救いにはならないという絶望。それが復讐。だとおもう。

西原幸人くんと藤原薫くんは鈴木先生にも出てたねっておもったけどこっちのほうが先なんだね。橋本愛ちゃんの凛としたうつくしさにハッとする。