茶の間でおま。

本とかテレビとか宝塚とか。

「かもめ」

見たかった田中圭ちゃんと満島ひかりちゃんが共演した「かもめ」がEテレでオンエアされたやつ見ましたー。

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ボロボロのお洋服を着てひたすら愛を乞う彼のさびしさとツラさがとても痛かった。愛してると言ってくれた彼女は都会からきた有名人に夢中になり、才能のない自分はあっさりと捨てられたのだとおもってる。それは母親に対してもおなじで、才能ある女優である母にとって自分は無能で平凡で価値のない人間だとおもってる。愛に飢え、自分を肯定できず、それでももがく彼が哀しかった。あんなに愛されていたのに。

彼もまたきっと傲慢であったのだとおもう。

コースチャの病的な部分ばかりが気になったけど、でもトリゴーリンも実はそうなのではないかと気づかされた。あの終盤のかもめの剥製を見て「覚えない」と繰り返し言うところの狂気。若い娘と火遊びのような恋をして子供も産ませて、でも簡単に捨てることができて、元の年上の愛人のところに戻ることの出来る厚顔さと、無邪気にいつか捨てた若い女の子のふるさとにのこのことやってくることのできるデリカシーのなさは怖かった。コースチャのようにわかりやすい病み方ではなかったぶん余計に。

田中圭ちゃんのエロスが最大限に発揮されていて、夢見る少女をたぶらかし、一瞬の気の迷いに歯止めをかけないそのだらしなさがさいこうにすばらしかった。えりもとの緩んだシャツに、いつも捲られていたズボンの裾。そしてビーチサンダル。なんという緩さ。みんなが彼の才能をたたえるけれど、彼もまた文字を書くことに追われる日々に心を病んでいたのだとわかる。書いている時には幸福感に包まれていてもいざそれが書籍という形になったときに絶望する。書かなければよかった。それでも彼は書くしかなく、周りの人間たちをすべて自分の中に取り込んでその人生を弄ぶ。そんな彼を制御できるのは確かにイリーナだけだったのかもしれない。ニーナには荷が重すぎた。

憧れていた女優という未来予想図とは大きくかけ離れているであろう現実から時折目をそらしながらも、それでもわたしは女優だとなんども言い聞かせるニーナは、ただその「女優」であるという現実、それがどんな形のものであっても、にしがみついて生きるしかなく、恐らく見えているであろう誰の目にも明らかな未来が「三等列車に農民たちと一緒に乗ってエレツへ行くの」というセリフなのだとわかる。

自分に会いに来たのではなく、彼女を捨てたあの男をまだ愛してるのだと、その彼に会いたかったのだとわかった彼の絶望は深い。部屋を出て行った彼女が一列に並んだ椅子たちの真ん中に後ろ向きに座り、それをさしてシャムラーエフがかもめの剥製だと言ったことにゾッとした。そしてそのことを「覚えていない」というトリゴーリンにも。

しかし田中圭ちゃんはほんとにわたしのすきなお芝居をするので困ります。息をするように嘘をつくのが上手。セリフを言うことにためらいがない。それなのに気負ったところがなくて、そのなんでも簡単にやってのけてみせてるように見えるのがすごい。

たとえば満島ひかりちゃんはその内なるパッションを隠すことが出来なくて、今回のお芝居ではそれを存分に発揮していいという演出をうけてあますところなくおしみなくそのパッションをはじけさせていたし、これが初舞台だという坂口健太郎くんはやっぱり模索していたりなにかを手探りしていたり見えないものを一生懸命見ようとしている空気感があった。それが若さなのかもしれないけれど。難しいだろうお芝居を、これだけ見たあとにいろいろと思わせてくれる作品にしたのはすばらしかった。瑞々しかった。そしてやっぱりスタイルがいいのでとても舞台映えする。

坂口健太郎くんと田中圭ちゃんが同じ事務所だって知りましたwもしかしてタラレバ娘はバーターだったのwwwと衝撃の事実にわらってます(どっちが、とか言わない

そしてやっぱり田中圭ちゃんの足首とかくるぶしさいこうだった。です。