茶の間でおま。

本とかテレビとかすきなものたち。

8thシングル「黒い羊」

宇宙初オンエア聞きました。

欅ちゃんは強気だなーというのが感想です。タイトルが出た時にも界隈ではいろんな想像予想妄想有象無象が飛び交い、おたくたちの際限ない考察や深読みの数々になるほどおたくとしみじみ頷きました。おたく楽しい。黒い羊という言葉はどこか不穏で、どこまでも欅ちゃんらしいなーって音源を楽しみにしてたのですが。

 

「ぜんぶ僕のせいだ」

 

揺れる声に、怒りでわたしがふるえました。また何を背負わせるつもりなんだと。歌詞に出てくる「僕」を平手に重ねて、その世界観に引きずり込んで一身に背負わせてるのはわたしたち大人だ。まるで平手が自らそうしてるかのように思わせる狡猾さをもって。平手の見せる物語性こそが欅の真骨頂で、それを担うのが平手だ。満身創痍の姿を見て、そして見ぬふりをする。その過酷な世界の中でもがき苦悩する姿を見て心を動かされることに歓ぶことに対する罪悪感。

これまでに見た映像の中で一番衝撃を受けたのは、共和国2017の不協和音での「僕はいやだ」の言葉だ。心を揺さぶられてとても動揺した。危険だとおもった。これ以上この世界にいてはいけない。このままでは自分にかけた呪いによって滅んでしまう。早く逃げ出さなくては。助けなくては。でもどうやって?危機的な目の前の状況に手も足も出ないのがもどかしくて苦しくて、だからわたしはそのことから目を背けた。だってこれは虚構なのだから。

年末年始の歌番組の露出に平手の姿はなく、平手のいない欅の姿を何度も見るうちにその不在に慣れさせられてしまったわたしたちにとって、このフレーズはまさにディープインパクトだった。誰が平手の代わりを務めるのかなんてことを話題にしていたわたしたちはひたすら呑気だった。誰が平手の代わりを務めても、それはまるで別物で、わたしの思い描くものとは違うなあって確認するための作業でしかなかったのに、それが何度も続くと果たしてそれが違うものなのかそうでないものなのか曖昧になってしまっていて、確かに不在を確認する作業は苦痛ではあったけど、でも別の意味ではどこかで安堵していたはずだ。そうだった。平和ボケしていたようなところのあるわたしたちに冷や水を浴びさせるような一撃だった。背筋が伸びた。そしてゾクゾクした。平手が呼び起こすこの薄暗い感情を再び持ったわたしたちは、でも手放しでそのことを表明できず、どうか平手がしあわせでありますようにと願いながらもそれと反する感情をも抱えることをはっきりと自覚するのだ。そこには後ろめたさしかない。

平手の怪我がちゃんと治りますように。でも新曲のパフォーマンスも見たい。

平手の屈託のない笑顔が見られますように。でも屈託の中でもがく姿も見たい。

わたしたちは常に相反する感情の中で揺れ動き、その後ろめたさから目をそらしながら、平手が好きだ、どうか平手がしあわせでありますようにと願うのだ。なんという醜悪さ。これがアイドルを消費するということなんだなとおのれに言い聞かせて、その分の代償は払わなくてはならないのだと戒める。

わたしが感じた怒りは、わたしの中にある矛盾に対するものだ。

 

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かわいい。